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1 <百字紹介文> 101歳を越えても矍鑠として若者のように新たな夢を語りながら次々とその計画を実行に移して成果を上げていく意気軒昂な現役医師・日野原重明氏。この本は氏がより良き人生を送るため命の使い方について述べた本。 <詳しい紹介文> 日野原重明氏とはご存知の方も多いと思うが、現在100歳を越えられながらも聖路加国際病院理事長・名誉院長、聖路加看護学園名誉理事長などをしておられ、旺盛な執筆活動、講演会活動などもしておられるあの有名な先生である。 私は彼のファンであるので、何年か前に地元に来た際は講演会にも行ったし、このサイトでも何冊か日野原さんの本を紹介してきた。 今回の本はあのベストセラー『生き方上手』に匹敵するぐらいの出来のような気がした。勿論他の著書もいい本なのだが、多かれ少なかれ『生き方上手』と重複するような内容などあり、少し新鮮味が欠ける点等があったりした。 今回は101歳のバーを越え、今までとは少しスタイル・内容も変わった気がした。 著者自身もその辺は意識したようだ。あとがきの文章を少し引用する。 「僕は101歳のバーを跳び越えました。僕の余生がどのくらい続くかを考えようとしても、人間には予測できない事故や病気が生じることが多いことを知っている医師として、自分の余命を読むことはできず、ただ許された人生を走り続けるのだと思うので、生きている間の人生を自叙伝として遺す気にはならないのです。そこで僕は思い出すままに僕の過去の歴史とこれから生き続ける目標を語ることにしました。 その中には色々な方の詩や僕の詩や童謡なども挿入しました。 2011年3月11日、日本は大変な災害に遭遇しました。僕の愛読書に吉田兼好の『徒然草』や鴨長明の『方丈記』などがありますが、これらの古典を改めて読むと、いのちあるものはすべて有限で、そのいのちが突然断ち切られるということは、いつでもありうるということだと書かれています。この二人は僕に比べるとずっと若くして世を去っているのに、100歳を超えた僕が師としたい豊かな人生の奥義が述べられています。僕はこれまで作家や哲学者や宗教者その他の識者から多くのことを教えられてきたのです。」 私は50歳でまだ平均寿命からみれば若い。しかしいつまで生きられるか予測はつかない。 我が家の宗旨・浄土真宗の開祖・親鸞の白骨の御文にも、人の生涯は儚く、今現在元気でも、次の瞬間死んでしまっているかもしれない。年齢を問わず死が訪ずれる可能性を述べた有名な文章がある。 それだけに善き人生を送るためにも、他人のために貢献する、使命感をもって生きるという気持ちを出来るだけ早く、子供のうちから抱かせるような教育のあり方を説く。 確かに(洋の東西を問わず)現代社会の大人達では、やられればやり返すことを繰り返し、憎しみの連鎖を太古以来続けてきた世代ではもう改めようがないかもしれない。 私自身は、今の若い世代に対してかなり情けないと思う面が多々あるが、それでも若者こそ明日の未来を拓くのであり、宝である。明るい未来に変わって欲しいと願うなら、自分らの世代では限界であり、やはり若者に期待するしかあるまい。 この本は、勿論若者に対してだけものを言っているのではない。老人を含め全ての世代に対してだ。 著者自身、老いてなお意気軒昂な老人が出来るだけ元気に生きていくことを後押しする「新老人の会」を立ち上げたり、「100歳からのフェイスブック」などでその活動をネット面からも推進したりと、老人に対する働きかけも活発にしている。 そして病気で寝たきりの老人だろうが、かけがえのない人であることを認識し、生をその人なりに精一杯生きることの尊厳を尊重することを説く。 いわゆる死生観、死から生を観ることの大切さを説きながら、死に望む血縁者の姿などを幼い子供といえども回避すべきものではなく、その事は子供に深い影響を与え、後々生について深く考える契機になるからかえっていいことだとも説く。 この記事の1つ前で紹介した宗教学者ひろさちや氏の本『人生はあきらめるとうなくいく』では、仏教の教えに基づき、欲望を追いかけるがんばりは、人間を不幸にしてしまう。人生に意味を求めず、あきらめてこそ、本当の幸福が手に入る。と説く本であった。 日野原氏は「人生に意味を求めないか?」と聞けばノーと即答するだろう。そういう意味では、かなり言うところが違う。これに対して先の記事でも書いたが鎌田氏などはかなり日野原氏と言っている近いような気がする。 どちらが完全に間違い!という訳ではなかろう。 実際の人生に照らし合わせて比較し、それぞれの著者が真に言いたかった事を再考し、自分なりに生きる指標、または参考として加えて行くことが大事なのだと思う。 ひろさちや氏が言うように時には、物事をあきら(明ら)めて、割り切って生きていくことも必要だが、やはり夢・希望を持って生きることは、人間が亡くなる瞬間まで続けるべきことなのだろう。 またこの本に出てくるペイ・フォワードという考え方については、私も近年大変お世話になった恩師が亡くなり、その恩で人らしくなった私が他の人々に返していくことが自分の使命だと思うようになった経験があり、大変共感した。 人間は、豊かになろうと努力して、それがたとえ叶っても必ずしも幸福にはなるとは限らない。 人間が一番生きがい・幸せを感じるのは、やはり他人のためになった・世の中に貢献した時であると思う。 真の幸福とは何かを早く悟り、そのために努力を続け夢を叶え、結果として人々にいかに多くサービスできるか、いわば世の中に貢献できるかが、いのちの使い方として最高の使い方なのだと思った。 多くの人に薦めたい一冊である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-31 10:27
| 読書
<百字紹介文> 仏教哲学者・評論家のひろさちや氏が、仏教本来の教えに基づいた「あきらめる」という考えのもと、問題の本質にある欲の正体に気づき、少欲知足でこの瞬間の幸せを感じながら生きる肩の力を抜いた生きたかを奨める。 <詳しい紹介文> 著者は東京大学・同大学院を卒業。宗教哲学を学び、大学で宗教哲学を教えたり、一般向けに特定の宗派にこだわらず仏教について紹介している人物だ。特に本来の仏教のあり方を分かり易く説こうとする姿は好評を得ているようだ。 私も著者の本は今までに何冊か読み、ここでも幾つか紹介している。 私は今年51歳でそれほど年寄りでもないが、仏教には深い関心がある。 ひろさちや氏の本は興味をもった仏教関係の事項のいいガイドブックとして活用している。 この本のタイトルは見たとおり「人生はあきらめるとうまくいく」という、ちょっと聞いただけでは普通の常識とは逆をいくことを言っている。 前に医者でエッセイストの鎌田實氏も『がんばらない』というちょっとよく似た、逆説的なタイトルの処世術的エッセイを書いているが、鎌田氏はその一方で『あきらめない』『なげださない』というこの本のタイトルとは真反対の本も出している。 著者は、お釈迦様の教えかもしれないが、かなり常識とは逆説的な生き方を説いているようだ。 本の中で、浪人中の息子に両親が頑張れと声をかけたため、既に頑張っている息子がこれ以上どう頑張ればいいのかと思い、自殺してまった話が紹介されている。両親は不注意な言葉を後悔したということだが、同様な事項に関して私も実は強烈な思い出がある。 昭和57年の2月某日、予備校生だった私は東京中野でM大学の試験を終えて帰寮中(西武線東伏見にあった予備校の寮へ)のことだ。 JR山手線から高田馬場で西武線に乗り換えるため、跨道橋を渡り、西武新宿線のプラットホームに階段から足を下ろした瞬間、ほんの1m先ほどの所、手を伸ばせば届きそうな距離で、受験生らしき青年が入って来た列車に飛び込んだのだ。 その日はM大の経営学部の試験もあったが、早稲田大学政経学部の試験の日でもあった。どうやら早稲田大学の試験が芳しくなかったのだろう。それで飛び込んだようだ。 私はその日以来、こんな受験の失敗ぐらいで人生を棒に振ることはしないぞ、と心に誓った。 能力相応の頑張りでいい、入れる大学でコツコツ頑張って努力したほうが、きっと自分には向いているはずだと思い、以来コツコツ前進主義が私の信条となっている。 いわばある意味で「あきらめである」。完全にその道の将来を諦めるのではなく、自分の能力が現状は○○程度だと認識し(明(あき)らめて)、それに見合った、その実力でハードルを超えられる負荷で努力を積み上げていくのだ。 「あきらめる」という言葉には、「明らめる」という意味があることを著者も言っている。 仏教的な教えでもあるが、「明」の旧字の「朙」自体、その字の左側の扁には「窓」の意味があり、窓から月を覗いている姿を字にしたものだという。月明かりのもと、物を確かめるということらしい。では日ではなく月なのか? 著者の説明だと、日の明かりだと、明る過ぎてかえって細部まで見えてしまい、全体像を見失い歪んで(要らぬ事まで想像したりして)見てしまうから、月明かりぐらいがちょうどいいのだという。 かなり脇道にそれてしまった。 とにかく著者は、「がんばれ」に潜む「もっと」の危険。頑張っているに行き詰っているような人を更に追い込むような言葉の危険を指摘。第1章ではタイトルも「「がんばる」生き方は不幸をまねく」として頑張らない生き方を説く。 また第2章「仏教的問題解決のすすめ」等では、あきらめを行い少欲知足で、手段(例えば何かの欲望を満たす手段)を目的化せず(現状でも得られている)「幸福」だけを見つめて生きる事を勧める。 人間の欲望には限りが無く、ある欲望を満たすとさらにそれを上回る程度の欲望を求めるだけで、いつまでも満足せず、あくせくして精神的に不幸な生活を送るという。 人生とは仏教で説くように四苦八苦(「生・老・病・死」の四苦+「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」の八苦)の世界であり、もともと人生とは苦に満ちたものだと「あきらめ」、そう納得して、苦しみを減らそうとせず「しっかり苦しんで」、それでいてそのままの状況の中で「のんびり、ゆったり、楽しんで」生きていく。 まだ色々述べているが、この辺でやめておこう。 かなり過激な例による「あきらめなさい」という言葉も出てくるが、読者に精神的に割り切らせようという考えもあるのだろう。 著者のいう事を聞き、ちょっと今までのやり方を「あきらめる」という観点で見直すだけで、大分楽になるかもしれない。 お薦めの一冊である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-29 08:59
| 読書
<百字紹介文> 数年前話題になったハーバード大学マイケル・サンデル教授の講義録(下)である。下巻から彼の考えが次第に明らかになる。アリストテレスの目的論的なコミュニティ論の有効性を再認識しそれを正義論に活かしている。 <詳しい紹介文> まず下巻の目次を参考に記す。 第7回 嘘をつかない教訓 レクチャー1 「嘘」と言い逃れ レクチャー2 契約は契約か? 第8回 能力主義に正義はない? レクチャー1 勝者に課せられるもの レクチャー2 私の報酬を決めるのは 第9回 入学試験を議論する レクチャー1 私がなぜ不合格? レクチャー2 最高のフルートは誰の手に 第10回 アリストテレスは死んでいない レクチャー1 ゴルフの目的は歩くこと? レクチャー2 奴隷制に正義あり? 第11回 愛国心と正義 どちらが大切? レクチャー1 善と善が衝突する時 レクチャー2 愛国心のジレンマ 第12回 善き生を追求する レクチャー1 同性結婚を議論する レクチャー2 正義へのアプローチ 東京大学特別講義[後編] -戦争責任を議論する 本当はこの目次だけでもいいのだが、そういう訳にもいくまい。 はっきり言って、著者の考えを上手くまとめる自信はない。 書けば中途半端な記述、誤解が多い記述になりそうだが、未熟な男のメモ程度に思って頂き、出来栄えの悪さに関しては私も自認しているしているのでご容赦願いたい。 上巻でカントの考えが出てきた時、私はサンデルがカントの考えに近いのかと思ったが、どうも違うらしい。 下巻のレクチャー1でもカントが再登場、レクチャー2では彼の考えをさらに一歩進めたジョン・ロールズという哲学者の『正義論』の考えが紹介される。 このロールズという人物は、著者と同じハーバード大学で教授を勤めていたが2002年に亡くなった哲学者らしい。最近の人物なので私は今まで全く知らなかった人物だ。 ではロールズの考えが、著者に近いのかなと思ったが、そうでもないらしい。 第10回の講義では、アリストテレスの考えが再び登場してくる。 著者はここで彼のテロス(目的)論的な正義論の現代における有効性を再評価する。 彼の論の中には奴隷制を認める議論などもあるため現代では保守的として排斥されがちだ。 しかし著者は、当時の状況を鑑み、さらにアリストテレスが言っている意味での奴隷制の有効性の意味を考えた場合、奴隷制を認めているから簡単に保守的と排斥するべきものでないことを述べ、アリストテレスの目的論的正義論の現代における有効性を探る。 第11章では、これまた今まで全く知らなかったコミュニタリアニズムの政治哲学者・アラスデア・マッキンタイアの考えを紹介する。 著者もプロフィールをみるとコミュニタリアニストとある。どうやらこの辺から著者の考えが述べられているようだ。 マンキンタイアの考えだが、人間というものは実際には、抽象的な自己ではありえず、自己はコミュニティの中に存在し、コミュニティの中でどう生きるのが善き生き方かを問いながら生きるのが善いとする。コミュニティの中でこそ、人間は成長し、自らの人生を物語のように生きていくことができるという。 著者は、愛国心や忠誠心に関する問いを学生に発し、その考えにアプローチさせている。 最後の第12回の講義では、同性結婚の問題などをとりあげ、タイトルにあるように「善き生を追求する」「善ありし正義」の生き方を、すなわち著者がどうやら善しと考える生き方について述べている。 著者がこの講義で用いる手法、生徒らのディベートを通してそれを整理しながら思考を進めていく方法も、アリストテレスなどギリシャの哲学者が用いた弁証法・対話法によるものを意識して用いているようだ。 確かにこのような議論の進め方は、カントなどの哲学も専門用語をこねくり回す論理の展開と違って、問題が明確化され分かり易い。 抽象的事柄を多く扱うとはいえ哲学とは本来明確なものではなかろうか。 大抵の哲学者が一度はギリシャ哲学に回帰してその意義を再認識するのも分かる気がする。 上手く解説することはできなかったが、しかしとにかく面白い。 多くの日本人に読んでもらいたい一冊である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-27 09:52
| 読書
<百字紹介文> 数年前NHKも放送され話題となったハーバード大学マイケル・サンデル教授の講義録(上)である。想像していた以上に面白い。こんな感じで哲学を学べれば自分ももっと哲学を理解していたのにと少々恨めしく思った。 <詳しい紹介文> 数年前、NHKでも放送され話題になった講義のようだ。 ただし私はここ何年間も、昼間や夕方のニュースなど、ほんの一時テレビを見るだけ(1日のテレビ見る時間はおそらく約1時間程度)なので、この番組も実は全然見ていない。 本屋へはしばしば足を運ぶので、評判ももっぱらそちらで仕入れたものである。 著者は、ハーバード大学教授で政治哲学が専門の学者だ。コミュ二タリアニズムの代表的論者で、ハーバード大学での学科科目「Justice(正義)」が延べ14000人もの履修者を記録し、建学以来初めて講義を一般公開することになったエピソードは有名である。 知らない人も、ちょっとインターネットで調べればそういったエピソードはあちこちに載っている。 読む前は、評判ほどもなかろうとあまり期待していなかったのだが、読んでみると結構面白かった。あなたも読めばきっとハマると思う。 全部で12回の講義にようだが、上巻ではその半分の6回と、東京大学で行った特別授業の前半が収められている。 第1回は、時速100キロの猛スピードで走る路面電車の運転手が、前方に4人を見かけるがブレーキが間に合いそうになく、彼らを轢き殺すか、もしくは横の待避線に入ってそこにいる1人の犠牲で済ませるべきかという設問に関する討論から始まる。 その中では、帰結主義的に行為の結果(例えばある方法の方が少数の犠牲で済むといった)に道徳性を求めるより、定言的(哲学で仮定・条件を設けず無条件に主張する様)に間違っていることは間違っているといった道徳性の方が高いといった話などといったが出てくる。 そして帰結主義的な道徳論法の代表者としてベンサムの功利主義があげられる。「最大多数の最大幸福」などという言葉は確かに高校時代習った記憶がある。 この功利主義の考えは、正義としてどのようなものかを考えるために、ミニニョット号事件が引き合いに出される。南大西洋で沈没したその船の乗組員4人は救命ボートに乗るが、まだ経験の浅いリチャード・パーカーは真水を得られない事に耐えられなかったのか海水を飲んだため体の具合を悪くし死が近くなったように見えた。 このまま食料もなく救助が得られないまま時間が経てば皆死ぬと思った船長は、20日目にパーカーを殺して他の3人は彼を殺して生き延びる(実際はこれ以上書かないがもう少し複雑)。 24日目に彼らは、近くを通った船に助けられるのだが、船員を一人殺して生き延びた事が判明し裁判にかけらたという事件だ。 この事件をたたき台に第1回の講義では「殺人に正義はあるか」を、聴講者同志のディベーと的要素を加えて講義を進めていく(第1回だけでなく、全体を通しても同様な進め方である)。 第2回からは、ベンサムと同様、功利主義者の代表として、ジョン・スチュアート・ミルの考えが紹介され、ベンサムとはまたちょっと違った、考えが紹介される。 余談だが実は私は、大学時代に結構ジョン・スチュアート・ミルにはまっていた。功利主義の論者という観点ではなく、経済の持続的拡大成長ばかりを良しとする経済至上主義にあまりいい感じを覚えられず、ミルの思想にかなり共鳴し傾倒していた。 ここでは、ミルは功利主義の経済学者であると述べられているが、何事も勉強する前から固定観念を持って思想は見てはいけないと思う。 さて話を戻す。第3回ではリバタリアニズム(自由市場主義・市場至上主義)の論者ノージック(実は私はほとんど初耳の人物)の考えが述べられ、ビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンの話を例にあげながら、豊かすぎるほど富をもつ人の富の正当性や、富の再分配の是非が問われる。 そして第4回ではジョン・ロックの考えが紹介され、議論される。 ロックの考えは英米のみならず日本を含め他近代民主主義の国家の憲法などの中に深く反映されており、自由や権利に関する考えがどのようなものか、あらためてこの本で知りかなり勉強になった。 第5回は、兵は志願制がいいか徴兵制がいいか、はたまた傭兵制がいいかなどが話合われ、後半では精子提供者や卵子提供者が関わった生命倫理的な話の是非、タイトルにあるように「お金で買えるもの、買えないもの」を議論し合う。 そして前半の第6回では、イマニュエル・カントの難解な思想が、サンデルのわかり易く整理された説明の後、例なども交えながら皆で討議していく。 やはりこの上巻では一番難しい部分である。 だがこのマイケル・サンデルにかかると、聴講者同士のディベートからそれぞれの思想家の問題点なども上手く引き出され、それが整理され、自分でも意外に思うほど理解していることに驚かされる。 おそらくカントの思想の核心(?)にこれほどアクセス出来たのは、私も初めての気がする。 「カントのあの小難しい言葉は、そういう事だったのね!」と、少なくとも今までほとんどチンプンカンプンだったカントの思想が、ようやく少し納得がいった感じだ。 また巻末には、東京大学での特別講義がある。復習の意味でも、勉強になるし、アメリカの大学生とはまた少し違った考えも窺えて面白く感じた。 兎に角、想像した以上に面白い。 この後も読むつもりの下巻が楽しみである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-21 10:24
| 読書
<百字紹介文> 2008年2月末の発行で少し古い本だが、金融というものの骨格を上手く把握して、金融機関や金融商品などの性質を見事と言っていいほど分かり易く説明している。金融知識が必須の現代社会ではこういう本が有難い! <詳しい紹介文> 大学時代は某私大の経済学科のゼミ(元日銀の調査局課長が先生)で資金循環論を学んでいた。しかし大学を卒業して早30年近く経つ。 金融業界にでも就職していたなら金融の基本や常識は忘れることはないだろうが、大卒後は電機メーカーに就職。その後会社を辞めてからは自営業をついだので、ほとんど金融の知識はいらない仕事だ。忘れた事も多い。 現代社会は金融の知識抜きにして理解することは難しい社会である。 という訳で、専門的な本は読むことはほとんどないが(ほとんどは初歩的知識で読めるものばかりだが)、金融知識の基本的レベルの維持とある程度の最新事情を知るために、毎年最低でも十冊程度は金融の本は読むことにしている。 この本は実はそんなに新しい本ではない。2008年2月末発行されたものだ。 日銀の政策手段として公定歩合がまだ挙げられていた時代である。 公定歩合と聞くと今では懐かしい響きにさえ感じる。 また今年正月、東京証券取引所が大阪証券取引所に吸収合併され㈱日本取引所グループになったあたりの話は勿論書かれていない。 他にも2,3気づいたが、古い箇所についてはこの程度でやめておく。 (新制度等を知らないからといって特に問題になることもないと思う。また公定歩合等も知っておくべき事柄だと思う。) このように書くと結構知っているように思えるが、実は最近は物覚えがひどくて、いくら読んでもなかなか覚えられぬものも多い。 こういう金融の知識を書いた本を読むたびに復習させてもらっている。 学生時代からなかなか具体的にイメージ出来なかったのが、ポプション取引とスワップ取引だ。図などで頭 では何とか理解しても、こういうものはやはり実地で取引に関わったりしないと身につかないものかもしれない。デリバティブ流行りの時代であるから、一応毎年この関係は特に読むようにしている。 金融知識自体、実地につかないとなかなか覚えにくいものもあるが、とはいえこの本は非常にわかり易い気がした。 書かれているほぼ全ての事項は理解できたと思う。見栄ではない。 副題には「金融業界の新入社員から中堅社員までこの一冊で十分!」と書いてある。 まさかこの一冊で金融界の人間でもほぼ事足りるとはとても思えないが、ビジネスマンは最低限この程度の金融の本は読んでおこないと駄目な気がする(知識として覚えられるかどうかは別として)。 この本を読んでいて思ったのは、個々の具体的な詳細の制度を覚えるより、それぞれの金融制度の骨格をなすもの、いわば基本的性質を把握することが大事だということだ。 そのような把握ができれば、銀行、投資信託、生命保険、証券会社・・・といった金融機関や金融商品(金融派生商品も含めた)を、自分で類型化出来て、経済情勢など世の中の動きをみる際に大いに応用が利くということだ。 金融関係で取引する人間でないが、社会を自分の力で分析するためにビジネスマンとしてある程度の金融知識を身につけたい者には、この本はうってつけかもしれない。 巻末に用語索引があるがコピーした。 というのはこの本は図書館(七尾市立図書館本府中図書館)から借りてきたもので返さないといけない。あとでその索引を観ながらもう一度自分なりに各用語の意味を調べるつもりだ。 その際にまだあまり理解していないようだったら、またこの本に当たり再チェックし、もう一度復習するつもりである。 多くの人にお薦めの一冊である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-16 17:31
| 読書
<百字紹介文> 日本のインテリジェンス作家の手嶋龍一氏が、NHKの特派員時代にケンブリッジ、マドリッド、ワシントンDC、ボンなど海外の取材等で接してきた多くのインテリジェンスの賢者たちに関して書いた29のルポを紹介。 <詳しい紹介文> 著者の手嶋氏は、NHKのボン支局長、ワシントン支局長など歴任した元特派員である。また最近では日本のMrインテリジェンスと呼ばれマスコミなどでももてはされている。プロフィール写真などを見れば、多くの人があの人かとわかるはずだ。 私は彼がNHKを辞めて(2005年)フリーになってから、小説やインテリジェンス関係の本を多く出していると知ったのは昨年のことである。 8月に『ブラック・スワン降臨 9.11-3.11インテリジェンス十年戦争』(新潮社)を読んだのを皮切りに、その後『インテリジェンス 武器なき戦争』(佐藤優氏との共著・幻冬舎)、『ウルトラ・ダラー』(新潮社)、『スギハラ・ダラー』(新潮社)、『武器なき〝環境〟戦争』(池上彰との共著:角川SSC新書)を読んでいる。 したがってこの本は5冊目ということになる。 『ブラック・スワン降臨』、『ウルトラ・ダラー』、『スギハラ・ダラー』はインテリジェンスを扱った小説、残りの共著の2冊は、国際外交問題などを扱った時事問題解説の本とでもいえようか。 今回紹介する本は、手嶋氏のルポルタージュ(手嶋氏自身があとがきでそう表現)にあたる。 ところでインテリジェンス(intelligence)という言葉だが、知性、知能、理解力の他、諜報(機関)、(極秘情報のような重要な)情報という意味もあるが、ここでは最後の意味に一番近い。 手嶋氏はインテリジェンスを次のように表現している。 「雑多なインフォメーションの海から選り抜かれ、分析を重ねたインテリジェンスは、国家の命運を委ねられた者が未知の航海に出て行く指針となる。深い霧の中を進む巨大タンカーの前途を指し示す最新鋭レーダーのように」 そして日本にはインテリジェンスを収集分析するろくな機関もなければ、インテリジェンス能力を磨かれた人間もほとんどいないと危惧の言葉を述べ、色々な本で日本におけるインテリジェンスの確立を訴えている。 手嶋氏が特派員となってその目で見てきた世界中のインテリジェンス(インテリジェンスにはインテリジェンス(非常に重要な情報をもった)存在という意味もある)ともいえる人たちを、彼が接した際のエピソードや現地で取材してきた事件などを通して紹介したルポルタージュである。 登場人物をみると、ドイツのコール首相、アメリカのブッシュ大統領、マンスフォールド(駐日大使)・・・その他、日本人にあまり知られていない多くのインテリジェンスたち。 ルポの背景の年代を知ると、少し古い話と思う方もいるかもしれない。 しかし我々は実のところろくすっぽ現代史を知らないのではないか、特に日本以外の他国、つまり国際情勢の変化の歴史を知らないといっていいのではないか。 私も最近、自分は現代史についてはほとんど何も知らないとつくづく感じている次第である。読めば読むほどそう思う。 テレビなどでもっと最新の海外情勢などを伝える番組が多く流れていれば、テレビをもっとみて情報入手に務めるのだが、日本のテレビ局が流すのはたとえ最新の海外情報であっても、日本の庶民が喜びそうなどうでもいい情報がほとんどである。 となると書店や図書館の本を読んで情報を入手するか、インターネットで海外のサイトを英文でもいいから積極的に読んで入手するしかないように思う。 現在、その際に参考にする指針的役割の人が、手嶋氏であったり、池上彰氏であったり、佐藤優氏であったりする。 手嶋氏は、実のところ、読んでいて私とは大違いの人、はるか雲の彼方上空の人である。 読んでいてハイ・ソサエティといった雰囲気で、彼自身、上流階級の人と優雅な付き合いをするのが好きなようであるし、洗練された教養やマナーを重要視しているのが窺われる。それだけに気取りも多く感じられる。 私はといえば、ブルーカラーの所得も少ない男である。見栄などはっていられるような状況ではないし、気どっている余裕などない。 自分の無能さを感じ、ただただコツコツと地道に精を出し食っていくしかない男である。 それでも矜持がある。今更手嶋氏のような活躍できる人間になるのは無理だが、このような本を読んだり、コツコツと努力を積み重ね、一歩ずつでも自己啓発に努めている。 そしていつかはインテリジェンスとまでいかなくても、(富や贅沢、権力権勢などは望まないが)ある程度人から認められ、尊敬される人間になりたいと思っている。 現代は、全ての人が、国際情勢に左右されるグローバルの時代である。国際情勢を分析するインテリジェンスは、我々といえどもできう限り入手したいものである。 多くの日本人に薦めたい一冊である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-13 08:38
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<百字紹介文> 人気シリーズ『姫は、三十一』の第三弾。松浦静山の娘・静湖姫(主人公)は、謎解屋を立ち上げたが、今回は一寸小僧という盗賊が用いるからくりの謎解きと、某大名家の姫の駆落ち失踪の行方探索の依頼をうける・・。 <詳しい紹介文> このシリーズは、今NHKBSでやっている『妻は、くの一』の姉妹シリーズのような作品だ。 あちらの主人公は平戸藩士で、元藩主・松浦静山やその娘・静湖姫が、重要な登場人物となっている。 こちらの主人公は、その静湖姫で、美貌だが縁談にめぐまれず行き送れた三十一歳。ただ占いの大家でもあるオカマの店の主・繁蔵が占ったところでは、今年は「三十八万四千年に一度のモテ年」だという。 そういう訳で前巻(第2弾)では、沢山の男達が、静湖姫の魅力に惹きつけられ彼女に恋してしまう。 この第3弾でも姫はまだ31歳。よってその流れはまだ続いている。新たに沢山の男達が、彼女に恋してしまう。 さてこの第2弾だが、今巻は静湖姫が2つの謎を解く。彼女は前巻から成功報酬3両を条件に<謎解き屋>を始めている。そんな彼女に今回も2箇所から依頼が。 1つは一寸小僧なる義賊の泥棒が使うカラクリを暴くこと。もう1つはさる大名家からの依頼で静姫同様繁蔵の店の常連である多歌子姫が、さる用心棒の男と駆け落ちしたがその行方を捜して欲しいというもの。 1つめの謎解きだが、依頼主は前巻でも登場した蔵前の札差で豪商の薩摩屋又右衛門。彼の店がその賊の五番目の犠牲となり3千両盗まれたのだ。 一寸小僧なる賊は、毎度必ず同じような仕掛け(カラクリ)で盗みを行った。最初は蔵の中で猫の声がして、調べに行くと虎がいてグゥワーンと吠えて火を吐く。驚いた店の者が、虎に噛みつかれたり、その火にやられぬよう蔵の戸を閉め、体制を整えてからしばらくして中に入るとモヌケの殻。 また他にも仕掛けが。蔵の窓付近にまるで打出の小槌で小さくされてしまったような小人がこれまた小さな千両箱をかずいて逃げる姿が目撃されたりする。そこから付けられた名が一寸小僧だ。命名者は、静湖姫に惚れる瓦版屋・黒尻穴へである。 という訳で静湖姫は、護衛の岡田博之助を連れ、巷へ謎解きのための探査に出かけるという趣向である。 面白いので一気に読んでしまった。今パラに読んでいる北方謙三氏の『三国志』は、どうもなかなか先に読み進められないが、こちらはスイスイと読める感じ。 何が違うのだろう?やはり面白さの度合いというほかない。 たとえば静姫の二つ目の依頼、多歌子姫は駆け落ちするにあたって、自分を探す手がかりをわざと残していく。居場所はその謎掛けを解けば分るというのだ。 その謎掛け(ヒント)とは次のようなもの。 金、下、上、下、上、下、上、上。 銀、下、上。 何か思いつくだろうか。私はまず将棋を思いついた。この作品の静湖姫もはじめは将棋を思いつくのだが、駒の動きを考えればあり得ない。よって将棋はヒントにならない。 この作品では、静湖姫がふとした気まぐれな思いつきを、町中へ出て確かめ、謎解きに導いている。 まあこういう謎解きものは最終的には作者にしか分らぬことが多いものだが、そういう推理ものの面白さなども多数とりこみいい作品に仕上がっている。 巻末で新たに静湖姫に魅了された男達の近況が列挙されるが、用心棒稼業の秋月丈四郎、長谷川屋の若旦那・甲太郎、南蛮屋卯之助、旗本の当主・佐野周吾…そしてこともあろうにいつも静湖姫をからかっていたあの両国広小路のはずれのおかまの飲屋の店主・おかまの繁蔵までもが。 ここまでいうとかなりのネタバレだな。スイマセン! 次巻以降ではこれらの男たちから、静湖姫への積極的なアプローチでもあるのだろうか。火花飛ぶような戦いでもあるのだろうか。今から楽しみである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-12 04:19
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<百字紹介文> 古代ローマの哲学者にして、詩人・劇作家、そして一時は執政官というローマ官僚の最高峰にも就いたことのあるセネカが、人生を生きていく上でいかに時間を自分のために大切に使うべきかを説いた古典的人生論である。 <詳しい紹介文> 「セネカは、2千年前の古代ローマ帝国の思想家です。ストア学派の哲学者にして詩人・劇作家でありながら、政治の世界にも深くかかわり、波瀾万丈の生活を送りました。数点の悲劇作品と、多くの哲学的書簡やエッセイを残しています。 その中の一篇『人生の短さについて』は、時間の大切さをテーマにした、パウリヌスなる人物宛の手紙です。人生は短いと嘆く人間は多いが、それは、その人が短くしているからだ、とセネカは言います。無意味なことにかまけていると、人生などあっという間に過ぎ去ってしまう、自分自身と向き合おうとしないで、年老いてから、まっとうな生き方をしようとしても手遅れなのだ・・・・・・と。」 冒頭から訳者あとがきを引用させてもらった。かなりの手抜きかな?? でもこの文章が一番、この本を短く適切に言い表した言葉だと思えたので引用した。 この本は、前にも一度(確か岩波文庫で)読んだことがあるが、どこか固苦しくて読みづらかった記憶がある。こちらの訳は非常に読み易くなった感じがする。 セネカは、人は自分が永遠に生き続けられるかと思って、枯れることのない泉か何かのように時間を無駄遣いしていると指摘する。 娯楽のため、飲食のため、金儲けのため、公的な仕事のため・・・・他人や物事のために時間を無駄使いしているという。 「今日という一日が、最後の一日かもしれないというのに-。 死を免れない者として何もかも恐れながら、そのくせ不死の存在であるかのように、何もかも手に入れたいと望むのです。」 言っていることは大体頷けるものがある。 ただやはり彼はローマ貴族という身分で食うに困らぬ人であるからだろう。 訳者もいうように「私たち現代人は、ローマ人のように食糧を無料配給されるわけではないし、食べていくには働かねばなりません。」 それだけにちょっと頷けぬ箇所も多少ながらある。 自分のために時間を使い、他人のために時間は使うな、といっても、ほとんどの現代人は、稼ぐといえば自分のこと以外に時間を費やし働き収入を得て食糧など日常必需品を購入するわけだ。何かしら他人のためになるサービスをしなけらばまず収入は得られない。 自己の生き方を深く考えるために、他人のために時間を費やすことなどやめて、できるかぎり若いうちから哲学などの書に打ち込むというのは、収入に心配のない財産に余裕のある貴族のいう言葉である。 仕事(現代の仕事は何らかの意味で必ず他人のために時間を使い働くことだと思う)は、生きていく上で必須のことであり、それを疎かにしては暮らしを続けて行けぬのが実情だろう。 ではセネカの言葉は、古代ギリシャ哲学者の世迷い言、戯言に過ぎぬと、簡単に切り捨てられるかといえばそうでもない。 実際、現代人は、色々便利なツールも増えただけに、無駄な事に多くの時間を費やしていると思う。何に時間を使うかは、人それぞれの価値観で違うのは確かだ。 しかし夕食後などの時間を、テレビを観るともなしに観て、低俗なお笑い番組など観ながら、くだらんとか文句をいいながら見続けているのが多くの人の実情ではなかろうか。 やはり私もそれはもったいないと思う。 そういう時間の費やし方をするなら、もっと書などに親しみ、いかに生き、いかに死ぬかを、今から深く考え、生き方を変える努力をすべきだろう。 そのような生き方を実践すべきだろう。 ここ7,8年ほど前から、私はあまりテレビを見ないようにし、その分読書や各種勉強に時間を費やしている。 もうかなり年をとった(現在50歳)が、それでも今からでいいから少しでも自分を向上させ、別に贅沢な生活などできなくても良いから、死ぬ間際に後悔しない人生を送りたいと考えるようになった。 食っていく以上、働かねばならないが、それ以外の時間は、出来るだけ今風の言葉で言うなら自己啓発のために使っている。 自己啓発というと、自分の何かしらの地位向上のための、スキルアップとか資格試験獲得などの努力のように聞こえる。私の稼業は自営業である。 よって私が言う「自己啓発」は、あくまで精神的な意味での自己啓発であり自己修養である。 今純粋に、私は精神的にもっともっと成長したいと思っている。 いかによりよく生きるか、またいかに死ぬべきか、のために。 そういう意味で、やはりこのセネカの書はその指南役ともなる古典的人生論といえる。 お薦めの一冊である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-11 11:18
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<百字紹介文> 戦後托鉢のみで収入を得て暮らし人々から「宿なし興道」と称号を奉られた曹洞宗の禅僧・沢木興道の法句を、その愛弟子の内山興正氏がノートしその中から選りすぐりの言葉に「参」(解説)を加えまとめたのが本書だ。 <詳しい紹介文> この本は昭和51年発行の非常に古い本である。 著者の内山興正氏(1912-1998)は、早稲田大学で西洋哲学を学び、キリスト教にも影響を受け、宮崎公教神学校の教師などもしていた人物である。 その後昭和16年、曹洞宗の沢木興道老師について出家得度し、昭和40年、同老師遷化の後は、鋭意、後進の育成と坐禅の普及に努めた。当時内山氏の門下には外人も多くいたそうで、その著作は英米仏など数カ国後に訳されたという。 「宿無し興道」と称号を奉られた内山氏の師匠・沢木興道氏が語った言葉のうち、内山氏がノートし、寸鉄のごとく鋭く、しかも底知れず深い含蓄をたたえた言葉を「法句」として拾い出し、この「法句」に内山氏が「参する」という形で「宿なし法句参」と銘打って書き出したのがこの本の契機のようだ。 内山氏がこの「法句参」を書き始めた頃は、沢木氏も生きていたが、まもなく遷化した。内山氏はその後も「参」の執筆を続け、それを大阪毎日新聞に連載することになり、1年2ヶ月56回に亘って書かれて纏められたのが本書である。 沢木興正氏は「色気と食気の他に何ぞ考えたことがあるか!」などといった豪放磊落な語り口で、最後の雲水と言われた人物だそうだ。沢木氏の寸鉄、人の心をつく片言隻句を、愛弟子の内山氏が温め、噛み締め、味わい尽くしたのがこの解説書ともいうべき本書である。 沢木氏は、古臭い仏教の用語や禅語持ち出したり、仏典の引用したりなどしていれば、とたんに人々からそっぽを向かれると考え、平明な言葉で滋味深く語った禅僧だったそうだ。 沢木氏の法句だけ幾つか挙げてみよう。 「屁ひとつだって、ひとと貸し借りでけんやないか。人々は皆『自己』を生きねばならない。お前とわしと、どちらが器量がいいかわるいか、頭がいいか悪いか・・・・比べてみんかてええ」 「群衆心理とはおかしなもので、何にもわからぬなら黙っておりゃいいのに、何にもわからぬところにブラ下がってやりおる。自己のないことおびただしい。これを浮き世という。」 「今時分のやつのやることは、みな集団をつくってアタマ数でゆこうとする。ところがどこの集団でもグループぼけばかり。いわんや党派をつくるなど、グループぼけの代表である。そんなグループぼけをやめて、自分ぎりに自分になることが坐禅である。」 「人間というものは、みな一緒じゃない。これメイメイのもちもんなんじゃ。」 「だれでもみんな、メイメイもちの穴から覗いた世界だけをみておるもんな。そしてこのメイメイもちの見方、考え方を、みんながもちよるんじゃから、世の中にはモメが起こる。」 「宗教とは、外の世界をつくりかえるのではない。こちらの目、耳、みかた、アタマをつくりかえるのである。」 「われわれはサトリをひらくために修行するのではない。サトリに引きずりまわされて修業するのである。」 「坐禅して何になるか?-ナンニモナラヌ。-このナンニモナラヌことが耳にタコが出来て、本当にナンニモナラヌことをタダするようにならねば、本当にナンニモナラヌ。」 「仏道とはよそみせんこと。そのものにナリキルことである。これを三昧というう祇管(しかん)という。」 「『唯識論』という書物に、『内識転じて二分に似る』とあるが、たった1つの意識が動いて、主観と客観とがあるに似ており、その中でこれを追ったり逃げたりして大騒ぎがはじまるのである。-煩悩とはオカシナもんじゃね。」 「自分というものは、自分をもちこたえてゆくことはできない。自分が自分を断念したとき、かえって宇宙とつづきの自分のみとなる。」 難しい言葉もあったかと思うが、内山氏の「参」というか、わかりやすい解説がついて、読むとナルホドと思う。 私は真宗門徒であるが、曹洞宗や禅(宗)にも強く惹かれ、以前鎌倉のさる有名禅寺で坐禅を数日数回したこともある。 今後も折々、禅関係の本を読んでみようと思う。 できればここにも紹介したい。 現在なかなか入手は難しいかと思うが、お薦めの一冊である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-10 12:54
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<百字紹介文> 空海・高野山検定公式テキスト(総本山金剛峯寺と高野山大学が監修)である。空海の生涯、言葉、高野山の紹介等が平易な文章で纏められたガイド本。検定を受験するしないに関わらず空海及び高野山ファン必読の本だ。 <百字紹介文> 表紙には、上記のタイトル表記の他に「空海・高野山検定公式テキスト」及び「絶対にしっておきたい!」という強調語も付記してある。 私は別に空海・高野山検定を受けるつもりはないが、空海は大好きな歴史上の人物の一人でもある。日本の宗教史上では、私の中では親鸞、道元と並んで3本の指に入ると思う。 我家の家業も景気が良ければこの検定を受けるために出かけてもいいのだが、生憎ここ十数年ずっと不景気である。 この本自体も買ったのではなく、図書館から借りてきたものだ。 興味が尽きない空海をさらに深く知るために読んでみた。 今までに空海や真言宗に関しては、司馬遼太郎著『空海の風景』や陳舜臣著『曼陀羅の人』、服部真澄著『最勝王』、夢枕獏著『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』などの小説、ひろさちやなど宗教思想家やその他宗教家の本など多数読み学んできた。 読めば読むほど知りたくなる人物といえよう。 この本は、空海・高野山検定の公式テキストというだけあって、各項目を見開き2ページで非常にうまくまとめている。 ちなみに章名だけ参考に列記すると 第1章 真言宗の開祖 空海の生涯 第2章 密教の教え 空海の言葉 第3章 密教の聖地 高野山の至宝 第4章 世界遺産の霊場 高野山巡礼 巻末に「高野山略年表」と高野山365日(1月から12月までの主な行事と法会)が掲載されている。 歴史家の書いた本ではないので、超人的というか神がかり的な業もそのままエピソードとして伝えているが、そのようなものは別に注意せよといわれなくとも、史実ではないと分るからこれで十分である。 むしろそのようなエピソードも含めて知ることは宗教史的には意味ある事だと考える。 今回は図書館(七尾市立中央図書館)から借りてきたが、これだけ上手くまとめてあるのを見ると、やはり買って持っておきたくなった。 紹介されている空海の言葉はそんなに多くはないが、第2章で幾つか挙げて解説している。 現代に通じる言葉が多かったようじ思う(そういうものを特に集めたのかな??) 例えば「物の興廃は必ず人による。人の昇沈は定(さだ)んで道にあり。」 何時の世にも人材の育成こそ興起の要なのだろう。 またこういうのもあった。 「求道の志は己を道法に忘る。なお輪王の仙に仕へしが如し。」 こちらは先ほどの句と違って解説が必要だろう。 本の中の現代語訳ではこう書いてある。 「求道の志というのは、その教えを学ぶために自分自身を忘れ、時としては自分自身を犠牲にしてでもその教えを学ぼうとすることである。それあたかも釈尊が前世で教えを学ぶために、仙人を師匠として仕えたようなものである。」 最近の風潮は、辛い求道を避けるため、言い訳をつくり自分にも他人にも易しい道を選択し進むことにあるように思う。しかしその道は益々自分を低く押し留め、よって成長を抑制し、ひいては日本を衰えさせる事に繋がっていくだろう。 「物の興廃は必ず人による」と知覚し、まず自分からその状況を打開すべく求道の道に自分自身をも犠牲にして邁進すべきなのだろう。 しかし(こう書く私も)有言実行はなかなか難しい。 今後も敬仰する空海の事績・言葉などを折りにふれ勉強し、自己の目標として人格の陶冶に努めたいと思う。 空海・高野山検定を受ける受けないに関わらず多くの人に薦めたい一冊である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by une_genzaburo
| 2013-05-01 21:58
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