前記事(『壊れても仏像』(飯泉太子宗著・白水社))に続き今回も仏像に関する本である。
Amazon.co.jpの本の紹介には「如来像、菩薩像、明王像などの仏像を、どう拝めば祈りは通じるのか。さまざまな「仏像の約束事」を知り、仏像を拝むことから、仏教の教えに入っていけるようになる。」と書かれている。
『壊れても仏像』は、文化財修復という観点から書かれていたが、仏像から色々学ぶという意味ではよく似た内容もあった。飯泉氏は仏像修復に携わる人物だけに、ある程度仏像が美術品として扱われることは、仕方がないことのように考えていたが、ひろさちや氏は違うようだ。
自身、仏像を見て‘美しい仏像だ’とか‘お顔がいい’ということもあるようだが、そんな鑑賞的態度は間違いだという。仏像は美術品でも文化財でないといい、仏像の美しさ、すばらしさを判別・審査すること自体、仏像より一段上の存在にあるような態度で、おかしいと言う。
数年前タリバンがバーミヤンの2体の仏像を爆破したが、その時、ほとんどの日本人は、美術品・文化財として惜しいとしか思わなかったのは残念と言う。逆に仏教徒でないアフガニスタンのタリバンが日本人とは違い、仏像を文化財と見たのではなく、そこに宗教的意味‘偶像’を見出し、唾棄すべき嫌悪すべきものとして破壊したのは皮肉であると述べている。
そのあたりが、宗教評論家だけに考え方が飯泉氏と比べると峻厳な感じがする。
小乗仏教の時には作られなかった仏像が、大乗仏教が登場してから作られるようになった理由は、評論家だけに巧(うま)いものがある。
小乗仏教(原始仏教)では、釈迦仏は‘大般涅槃’、つまり完全な涅槃を遂げて、この輪廻の世界から消えてしまった存在「姿なきほとけ」であるので、像は作られない。
大乗仏教では、ほとけというものは「宇宙仏」、つまり我々が住んでいる宇宙そのものが仏と考える。宇宙仏は自らは語らない存在なので、その宇宙仏の教えを説くために、釈迦仏が人間の姿になって地球に来てくださった。
小乗仏教では人間の方が修行などによって仏に近づこうとするのに対して、大乗仏教では仏の方から人間の前へ現れるという風に教えが変わったので、それを転機に紀元1世紀の末頃より仏像製作が盛んに行われるようになったと説明する。
この本では本当に教えられることが多い。
今まで仏の分類など、殆どわからなかったが、これでかなり整理された感じがする。今後は寺院などへ参拝に行くときは、この本を持参して行こうかとも思っている。
仏像以外の事でも、例えば次のような事を教えられた。
この本の「帝釈天」と「四天王」と項目で、須弥山における時間と人間界における話が出て来た。須弥山頂上における一日は人間界における100年に相当し、須弥山の中腹(下天と呼ぶ)における一日は人間界における50年に相当するという話が出てくる。
そしてその後、次のような事が書かれていた。
戦国時代の織田信長が、好んで舞ったという幸若舞の「敦盛」の一節
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢まほろしの幻なり
一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」
は有名な歌詞だが、その意味を多くの者が「人間五十年」を「人生五十年」と思っている。だが実はその意味は、人間の命が50年しかないというのではなく、人間世界の50年が下天のたった一日なんだと教えられ、私も今まで完全に誤解してたと悟った。皆さんも誤解していなかっただろうか。
また祈りには2種類あるとして(以下著者の比喩的表現のまま説明をつづけるが特に説明はしない)、「請求書の祈り」と「領収書の祈り」をあげ、現代人は「請求書の祈り」に偏りがちだが、本来の正しい祈りは「領収書の祈り」であるという。私も言われてみれば「請求書の祈り」が殆どだった。日本人は神仏をどうしても御利益を祈る対象として見がちなのかもしれない。
日本人は、ほとんどの方が仏教徒のはずだ。ならば時には仏教の事を自分なりに色々学ぶことも必用だと思う。この本は、仏像のことを学びながら、仏教の事を色々学べる非常にいい本である。
お薦めの1冊です。
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