今回は昭和46年発刊のかなり古い本の上、非売品である。著者の岩本勝俊氏は巻末の経歴によると、明治28年2月28日生まれとあるから既に亡くなられているはずだ。曹洞宗大本山総持寺の貫主だった方である。
ネットでもおそらく入手困難な本である。まあ一応内容を紹介しておく。
私自身は、かなり前に一度参禅の経験がある。鎌倉の某名刹である。その頃郷土出身の鈴木大拙もかなり尊敬していたこともあろう。ただしその時は禅宗とはいえ臨済宗である。この本を読むと基本は大体同じであるが、素人でもわかる違いが色々あるようだ。
臨済宗の禅がよく公案禅といわれるのに対して、曹洞宗の禅が黙照禅とか只管打坐(ただひたすら坐禅を打て)と言われる。また曹洞宗は面壁(壁に向かって打坐する)など。しかし曹洞宗の坐禅が何も考えないで禅の打つのかというと、かならずしもそうではなく、曹洞宗にも公案は勿論あり、少し取り組み方が違うらしい。
ただ一つ言えることは、禅は書物だけでその極意を得ようとするのは、間違いであり、少なくとも初めての場合は正しい禅の指導ができる師の元で、実践して得るものだといことである。そういう意味では私も一度ではあるが、参禅した経験があるが、はっきり言ってもうあまり詳しい事は覚えていない。今も時々坐禅の真似をして精神を落ち着けるような事もすることはるが、半跏でさえ辛いので、普通の胡坐で姿勢を正して行っている。
この本には坐禅の功徳、効用、坐禅の正式な仕方などが書いてあるが、そもそも何かの功徳・効用を得ようと思って坐禅をするのが間違いであるらしい。禅宗は大乗仏教である。自分のためにではなく、大慈大悲の心で、衆生済度の広大な誓願でするものとされている。自分が救われなくとも他人が救われればいいという。
地位や名誉、利得、功名、とかく人が望みそうなもの、何かに拘りしがみつきたくなるような我は全て捨てろというのだ。世のため人のため絶大な慈悲、無私の愛をもつことによって、柔軟心、自由無碍の心が得られて、悟りに近づけるようになるという。なかなか捨てきられぬ自己を諦め、世界的存在の中に自己を解消し、現存在を精神的に解放。そこから小さな自分を克服して、本当の自分を生かすことが禅の究極の目的であるという。
しかし何度もいうようにこのように頭で理解しようとする態度は、禅の行き方としては間違いである。実践が第一である。禅僧ほどの修行は無理にしても、最低一度は正式な道場で体験すべきという。禅はまた、労働やその他のお勤めなどとともに規則正しい生活を行うこと全体が修行であり、本来はエリートの宗教であるという。ただし驕慢、我慢(ひとをバカにする気持ち)、法漫(悟りを鼻にかける)を生ずることはいけない。
また功徳・効用を求めて坐禅をするものではないといいつつ、著者はそれでも実践による効用は学問的にも(科学的にも)、経験的にも実証されていると言い、学者や体験者の事例もあげている。
この本は、坐禅の仕方、心構えや心得などがノウハウものの本のように具体的に出ている。また在家信者の勤めの仕方なども載っている。具体例が細かいだけに、臨済宗や黄檗宗などとの坐禅の違いや共通する内容、昔の幾つかの本との異同も色々説明されており、かなり勉強になった。
まあ素人の紹介だから、誤解・不正確な記述もあろう。かなり自己流になってきた私の坐禅でも精神を落ち着けるのには有効だった。坐禅に興味をもたれた方は、とにかく一度、禅寺などの道場で体験してみることを私も薦めたい。私もそのうちまた参禅してみたいと思っている。
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