私はこのブログでなく、ホームページの方で、
能登の山岳宗教の中心地だった石動山の歴史に関するコーナーを作って、色々と紹介している。しかし公開はしているが、まだ構想の半分位の製作途上にあります。最近、数度現地を訪れて、探検したりして取材はしているが、まだ整理しての更新はおこなっていません。つまり現在は中断のような状況です。
メンテ(更新)の問題点は、個人的なこだわり・精神的なことかもしれないが、仏教、密教、真言宗、中世など当時の信仰の様子など不勉強のため、よくわからない事が多いからです。関連図書を借りてきたり、辞書や辞典で調べたり、インターネットでも検索で調べてみたりと色々しているが、どうもまだまだ理解しているといえないのです。
この本はそんな状況の打開の一助になるかと思い借りてきた本です。
少し本の内容を紹介。
平安末期に、平家の南都焼討ちにより東大寺などの大寺は灰燼に帰したことは、多くの人がご存知の事でしょう。この復興のために入宋経験のある勧進僧・重源(ちょうげん)が中心的な役割します。そして大陸とのコネクションを利用して、中国から何人かの石工を招来しました。
「中国から渡来した石工はその後「伊(い)」姓を名乗り、大和を中心に多くの石造物を残しました。また、その分流は「大蔵」姓を称し、鎌倉や箱根に活躍の場を見出しました。本書では、彼らの活躍ぶりをその作品と共に見ていこうと思います。最初に中国から石工を招致したのが、東大寺大勧進の重源であったように、一流の石工が活躍する背後には常にその時代を代表する高僧がいました。本書では、石造物を通じて垣間見ることができる、当時の仏教社会の一端にも触れてみたいと思います。 」(カッコ内部分は、インターネット上の「BOOK」データベースの文章を転記)
1196年造立の東大寺南大門石獅子に、宋の石工が6人名前が記されているのを最初に、伊行末(いぎょうまつ)という石工の名前が次第に登場するようになります。そしてその嫡流と思われる伊行吉の系統が伊派石工をなし、伊行吉とほぼ同じ世代の伊行末の系統をひく大蔵安清(伊行吉と兄弟の可能性大と著者は指摘)が分派を大蔵派石工を形成、13世紀から14世紀の初頭にかけて活躍し、中世日本で優れた石造物を残して消えていった石工という異能集団に焦点を当てかかれた本です。
前半は石造物としては、主に彼らが遺した、宝篋印塔(ほうきょういんとう)に注目し、日本独特の宝篋印塔が出来た謎を、中国の宝篋印塔と比較したり、当時の日中の歴史及び交流史などから解明を試みています。また畿内や関東、中国などに残る宝篋印塔などの石造物の比較などから、それぞれの石造物を誰が造ったか、またその目的は何かなど推理します。後半は、宝篋印塔のみでなく、層塔や五輪塔、石碑、石仏などにも触れています。
このような内容なので、北陸の石造物にはほとんど触れていません(少しだけ金沢の尾山神社にあるという宝篋印塔についても記述あり)。直接的には石動山の歴史の理解の役には立たないでしょうが、自分では石造物に関する知識などが、大分得られたと思っています。役に立ちそうな箇所はコピーするつもりでいます。
このような本は、私と同年代およびそれより下の世代では、興味ない人の方が多いでしょうね。まあ変わったことに興味がある奴だなあという感じで結構ですから、興味の無い方は読み飛ばして下さい。何の文句もありませんので(笑)。