重源は、源平の争乱で焼け落ちた東大寺大仏殿や堂塔など東大寺大勧進職としてその復興を果たした僧として有名な人物だ。
といっても私も詳しいのを知ったのは、ここ数年。宮大工というものに非常に興味があり、その話に出てきた重源のプロジェクト力に更なる興味をもったのが始まりだ。
東大寺の復興を描いた作品では、他にも数年前岩井三四二著の『南大門の墨壺』などもい読んだ。
重源が主人公なので、私はこの小説は、東大寺の復興を中心に話が展開していくのかと想像していた。しかし違っていた。
本の最初の方と、巻末に東大寺の再興の話が出てくるが、話のほとんどは、彼がいかにして、そのプロジェクト力を身に付けたかの経緯が書かれ、そこに主題があるように思えた。
上人という言葉には似合わぬ、タイトルにあるような「悪党」ともいえるような汚れた事にも何度も手を染めながらも、重源は、人、もの、金を集め、組織やネットワークを駆使し当時の人々に圧倒的パワーを見せつけた。
そしてそれにより、当時他の者には到底出来ぬような東大寺の再興や、港の修築、池の築造などの巨大プロジェクトを次々成し遂げた。
東大寺再興は、朝廷でも難しく、政権を獲った鎌倉幕府でもその力のみでは無理であったようだ。ちなみに重源が、東大寺大勧進職に就任したのは61歳。そして大仏殿を再建したのは74歳の時である。支配者でさえ成し遂げられぬ事業を、老骨ながら成し遂げてみせたという信じられぬような離れ業だった。
ただしこの小説に書かれた重源の生涯には、ここに書かれたようなドラマが本当にあったのかは疑問が残る箇所も多々ある。勿論小説だ、フィクションもかなりあろう。どこからどこまでが実際のエピソードか私はよく分らぬ。
一応ここでは小説に従って先に進めよう。
まず小説を纏めてみると、この小説は主人公の重源が、生き残るため過酷な現場や修羅場を潜りぬけ、また宋国へも渡り当時の日本人が持ち得なかったような知識も得て、さらに不撓不屈の精神と創意工夫により、巨人のごとき圧倒的パワーで東大寺の復興を果たす実力をもつに至った経緯を述べたものと言えよう。
次に粗筋を述べる。
重源は、京都生まれで保元2年(1121)から建久元年(1206)の人、つまり平安末期から鎌倉初期に活躍した僧である。俊乗坊と号し、阿弥陀如来とも号したという。
父は紀季重(きのすえしげ)。この本によると、父が不慮の死で亡くなると、異母兄・季良(すえよし)との間で家督係争が起きた。まだ少年だった彼は難を避けるため醍醐寺の稚児となった。
重源の母が後家のため、当初重源の側が有利に立ったが、追いつめられた季良が、重源の母を殺害。季良は婿として入った朝廷をも畏れぬ実力者・六条判官源為義の有力郎党首藤家に匿われた。
重源は、敵討のために潜伏先を急襲するが、その際誤まって首藤兵庫助(首藤家当主)、を殺してしまう。それにより重源は源氏を敵にまわす羽目になる。
その後重源は、四国讃岐は多度津の曼荼羅寺の善宝という男に買われて、その下で働いたり、鉱山師と働いたりして、源氏の追求を逃れ、生き延びていた。
しかしある年の正月、重源は高野山の前座主正覚坊覚鑁(かくばん)から思いがけぬ召喚を受ける。出向いてみると、彼を追っているはずの源為義もその場に居り、為義から覚鑁に重源をある任務を遂行するに適任だと推薦したとのこと。
それは「宋版一切経」(宋で勅命により撰せられ刷られた、本物の経典全ての意味)を覚鑁のために入手し渡すという任務であった。覚鑁は高野山開祖空海の説いた教義とは少し異なる「大日即阿弥陀仏」を説き、新宗派(後の新義真言宗)を立てようとしていた。それを源為義も推していたのだ。
もし宋版一切経を入手し、覚鑁ら一派に渡す事が成功したら、首藤兵庫助を討った罪は全て許すという。そしてそれを記した起請文が覚鑁、源為義のみならず他にも石清水八幡宮、熊野社、賀茂社、三井寺の代理人も加わり作られた。
という訳で、重源は、鑁阿(ばんな)という従者を覚鑁から与えられ、宋版一切経を入手する旅に出る。一応準備金も与えられるが、最初交渉した博多の宋人からは二千貫文という一国を買えるほどの金額を提示され、日本で宋商人から入手することは諦め、宋に渡ることにする。
以後、独力ともいえる力で難局を1つ1つ乗り切り、宋版一切経を長年かかって何とか渡すことに成功。
その後、実力を蓄えた彼は色々な事業に乗り出していく・・・・・。というような展開だ。
非常に面白かった。三百余頁の小説だったが、一夜で一気に読みとおした。
お薦めの一冊です。
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