我家には、仏教関係の本が、我家の宗旨の浄土真宗(大谷派)に限らず、浄土宗、曹洞宗、日蓮宗etc・・・・多数ある(ただし断っておくが、別に宗教関係の家ではない)。その中でも一番多いのは、当然の事だが、浄土真宗関係の本である。『歎異抄』の全訳・解説がある本だけでも4種類ほどある。親鸞関係だけで、20冊近くはあろうか。その他、蓮如などについての小説や伝記、解説書、それから一向一揆関係の本も多数ある。
ただし今までに『教行信証』に絞って書かれた本は、読んだことは無い。『教行信証』に書かれた文章を読んのは、親鸞関係の本の中で現代語訳とともに少し引用されていたものや、真宗の布教用の小冊子などで、わかり易い部分を抄出・現代語訳したものだけだ。
親鸞の主著であるこの『教行信証』が、親鸞のどのような企図のもとで書かれたとか、親鸞が何を主題として書きたかったのか、どういう構想に基づいた組立でこの本は出来ているのかなど、殆ど知らなかった。また『教行信証』の中に、『大般涅槃経』、『大無量寿経』、『観無量寿経』の引用が多数あるのは知っていたが、その相互の関係も、深く考えた事は皆無であった。
今回、この本を読んで親鸞が、いかに真摯に懊悩し、苦悶ともいえる思索の中からこのの『教行信証』を書き上げたかがよくわかった。師である法然(源空)を敬仰しながらもその著『選択(せんちゃく)本願念仏集』に一見異を唱えるかの如く、師の考えをさらに一歩進め、極重悪人の往生も入れた著書を企図したことなども(あくまでこの本の著者の推測だが)。
『教行信証』を書くにあたって親鸞は、師の法然のやり方に似せて(?、これも著者の推測)、自分は依拠すべき原点として『大無量寿経』を選択(せんちゃく)すると宣言する。
思索し著作を続ける中で、『大無量寿経』には、極重悪人の往生に関して、五逆(仏教で説かれる5種の最も重い罪。父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることをいう.)と誹謗正法(仏教の正しい教え(正法)を軽んじる言動や物品の所持等の行為)の罪を犯した者を除くという除外規定があり、なかなかその壁を乗越えられない。
その除外規定の存在を知らない親鸞ではなかったが、他の経典の異なる説の引用など論考の中で何とか止揚できると考えたのだろう。しかし思考を続ける内に、そんな簡単な問題ではなく、浄土三部教(『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)以外の『大般涅槃経』の記述の大量引用などせねばならなくなり、この本のタイトル代わりに使われている章立て「教」、「行」、「信」、「証」に続けて、「真仏土」と「化身土」の2章を付け加え、当初の筋立ての目論見に大幅な変更を加えて、論究せずにはいられなかったことなど色々出てくる。
勿論、親鸞がそのような事を述べている訳ではないので、これらの苦悩は著者の想像なのだが、親鸞が、この本を書きあげる過程を真筆の原典などから推理すると、そういう親鸞の考えが浮かぶという。
『教行信証』は非常に難解極まる本だというのはよく聞く話だ。この宗教学者である著者も、『教行信証』と付き合って半世紀近くになるそうだが、最初はどれだけ読んでも全然全体像がつかめず、親鸞の真意に近づくことさえ出来なかったそうである。40代に入って最終章「化身土」の「懺悔三品」という言葉に引っかかり。親鸞にとって「懺悔三品」とは何だったのかと考えはじめたのを契機に少しづつ、親鸞像が描けるようになったとか。
確かに難解な書だと思う。でも私は、この本を読んだお蔭で大分『教行信証』に取り掛かる方法を教えられた。表紙内側に書かれたこの本の紹介文に「親鸞自身の苦しみと思索の展開をたどり、引用経典の丁寧な読み解きとともに親鸞宗教思想の核心を浮彫りに。歴史的洞察や史料論的解釈、比較論的考察を交えながら、宗教思想史に屹立する親鸞をその自然な思想的相貌において捉え、平易に叙述する。」と書かれているが、確かに難しい『教行信証』をこの本は平易に説明していると思う。
私は、同年代の仏教などには興味のない普通の人よりかは、仏教について、あるいは浄土真宗や親鸞について知っているつもりだが、まだまだイロハのイ程度の知識だ。
浄土三部教についてなどもう少し勉強する必要を感じた。家の本棚を調べていたら、『王舎城の悲劇-観無量寿経の真実-』、『七高僧とその教え』などという本が出てきた。まずは平易なそのような本を読んでから、後に浄土三部教の翻訳解説本などを読んでみようかと考えた。すぐではないがそう遠くない将来実施したいと思う。
親鸞の思想や浄土真宗について知りたい人にはお薦めの1冊です。
(この記事は、七尾市立中央図書館(ミナクル3F)から借りてきた本を参考に書いています)
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