最近、訳あって郷土史関係の資料をよく読んでいる。ほとんど能登関係だが、能登七尾と関わりある廻船問屋を色々調べているうちに、結局、加賀の豪商として名高い銭屋五兵衛と木谷藤右衛門がどうしても登場してくることになる。
両豪商は、加賀はもとより全国に名を成した豪商である。
現在は、銭屋五兵衛ばかり注目を集め、彼を取り扱った小説も何種類も出ている。それに較べ、木谷藤右衛門の方はほとんど無名に近い状態である。私も知ったのは実は十年ほど前で、粟ヶ崎の海岸に近いところで釣りをしていて、この木谷藤右衛門の説明板を見たのが最初だ。その時も、まあ地元が豪商だと言っているだけで、実際は大したことはなかろうと思っていた。
しかし最近、木谷藤右衛門に関する資料を調べていくうちに、これは銭屋五兵衛よりも凄いのではなかろうかと思うようになった。
ここまで書いて今のうちに断っておくが、木谷藤右衛門は一人だけではない。木谷家の当主は江戸時代、代々、木谷藤右衛門を名乗ってきており、現在に至る家柄だ。先祖は南北朝の時代から続く武士で、この本では詳しく書かれているが、ここでは省略する。戦国時代の頃、大津城主の京極氏に仕えていたが信長に攻められたので去り、朝倉義景に仕えた。そこで越前国・木谷郷を領したことから谷姓を名乗り、その後戦乱などで転々とした後、石川郡粟ヶ崎村に居住したようだ。
(なお藩政時代は木谷姓を正式には名乗っていない。昔、材木商をしていたことから屋号として木屋を名乗っていたようだ。木谷姓を正式に名乗るのは明治に入ってからである。)
木谷(木屋)藤右衛門は銭屋五兵衛の全盛時代でも、決してひけをとるような商人ではなく、それどころか、歴代に亘っての養子縁組を重ねて一門のようになっていた向粟ヶ崎村の島崎徳兵衛家と分家の木谷次助家でタッグを組むと、銭屋をはるかに超える財力を持つ豪商だった。
銭屋と木屋(木谷家)は、幾つかの共通点と幾つかの違いが見られる。
類似点としては、①両者とも多数の船舶をもち、藩権力と結びついた特権商人だった点。②両家とも得た資金を、大名貸や諸家への貸付け、並びに藩の御用金調達にあてる金融業者の一面をもっていた。③両家とも栄えると、藩財政への貢献から十村(加賀藩の制度で十の村を単位に豪農に代官の役を与えた)の格式へ昇格、苗字帯刀を許され、知行や扶持米を与えられた。④両家とも有力商人のうちにあっても傑出した商人で、当時は全国的にも名が知られていた。⑤両家とも藩権力による弾圧を受け、大黒柱的人間が牢死している。いる。銭屋は河北潟埋立てに投毒事件で、木屋は天明事件と呼ばれる事件で。
次に違う点だが、①銭屋は五兵衛の一代限りの繁栄だが、木屋の場合は、藩政時代の中後期を通じ、さらには明治期まで繁栄が持続された。②世人の評価や関心は、現在は銭屋ばかり。③両家とも財産没収、関係者の処罰を受けたが、銭屋が家名断絶にまで至ったのに比べ、木屋の方は後に許され、財産が返還、藩により積極的に復興が図られた。
こういう違いが出たことについて、この本では詳しく、かつ興味深く書かれている。
といってもこの本は、著者の私家本で入手するのはほとんど難しい。私は偶々入手できたが、もし入手しようと思ったら、石川県立図書館で探し、せいぜいがコピーを得るのが精一杯だろう。
よってわざとネタバラシする。銭屋と比較して考証しながら、著者は木谷家(木屋)存続の理由を、5点に纏めて列記している。
①藩の特定勢力との強い結びつきを避けたこと。
②銭五的な危険を冒さなかった。
③藩財政にとって、終始格好の金蔓であったこと。
④藩の農業中心の政策によって、対立勢力となるような新興商工業者の台頭に乏しかったこと。
⑤島崎徳兵衛をはじめ、木谷次助など一門の連携が強かったこと。
面白い考察だと思う。
実は現在かなり木谷藤右衛門と銭屋五兵衛にハマッている。
先ほどネットで『木谷藤右衛門家と福井藩関係文書』(長山直治著)という論文を見つけ、プリントアウトし、これから寝転がりながら読むつもりだ。
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