『硫黄島いまだ玉砕せず』(上坂冬子著・文藝春秋)を読了した |

硫黄島いまだ玉砕せず
上坂 冬子 / 文藝春秋
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ISBN-16-347160-X C0095 P1400E
タイトルから想像して硫黄島の戦記かなと思ったが、そうではなかった。硫黄島の慰霊に執念ともいえるような半生を費やした元海軍大佐の物語といったものだった。
今までに硫黄島関連では、ドキュメント的な作品では、
●『散るぞ悲しき』(梯久美子著・新潮社)
● 『名こそ惜しめ-硫黄島 魂の記録』(津本陽著・文藝春秋)
の2作品、小説では
● 『硫黄島』(菊村到著・角川文庫)を読んでいる。
またクリントイーストウッドが監督して話題になった『硫黄島からの手紙』も観た(ただしアメリカ側から捉えて描いた同監督の作品はまだ観ていない)。
しかし今回の作品は、書かれた時期は一番早い。1993年初刊である。
主人公というか、描かれている中心人物は、1900年7月24日生まれで海軍兵学校出身の元海軍大佐・和智恒蔵という人物。
彼は1940年12月日米開戦のちょうど一年前にメキシコ公使館付海軍武官補佐官となり、自ら名づけたL機関長として情報収集に従事した。開戦後、日本に帰り、しばらく国内各地の司令部などを周り、アメリカの情勢などの解説などしていた。その後、海軍硫黄島警備隊司令を拝命し、1994年3月硫黄島に赴任している。
硫黄島の海軍は、当時中佐だった和智の下に1362名、陸軍は厚地兼彦大佐の下に4883名。この時分はまだ佐官クラスが、指揮官でまだ栗林中将など将官クラスは赴任していなかったようだ(これらの兵数は後に大いに増強され、激戦始まった頃は日本側だけで2万人を超える兵力を配備していた)。
栗林中将が、ガダルカナルなどの敗戦を鑑み、上陸後の撃滅作戦を主張したのに対して、多くの者が、水際作戦を唱えたのは有名な話だ。この本を読むと、その時反論を唱えた一人がこの和智恒蔵らしい。ただし和智自身は、栗林と親しい仲であったらしく、方針決定後は従ったようだ。彼はその頃には大佐に昇進していた。ある日彼は、地下壕の補強材の材木をめぐってのつまらぬ原因からの揉め事で、同じ陸軍の井上左馬ニ大佐と口論し、か彼との間に確執が生じる。
おそらくそれが原因だろう。彼は内地に戻され、硫黄島玉砕のニュースを鹿児島で聞き、それから数ヶ月して終戦を迎えた。終戦後すぐに彼は知人の縁故を頼り天台宗の僧になる。僧名・寿松庵恒阿弥の誕生である。彼は、硫黄島で散った部下の慰霊に後半生を捧げたいと誓い僧となったのだ。
彼は、戦後間もなくの頃、巣鴨プリズンでも拘束されている。彼は、硫黄島が最初の実戦部隊配属であり、それ以前は無線傍受の活動が主であった。彼は1937年の日中戦争突入のきっかけとなる、盧溝橋事件の時、7月10日アメリカの緊急電報を傍受していた。7月7日に盧溝橋で起きた衝突事件は、和平交渉により一旦収まっていたが、彼が北京アメリカ海軍駐在武官からアメリカ海軍作戦部に打電された緊急電報で「信頼すべき情報によれば、今夜十七時、宗哲元の部下の過激分子が現地協定に飽き足らず日本軍を攻撃する予定」というものであった。
彼はこの事実を極東軍事裁判(東京裁判)の証人台に立って発言してもいる。彼は当時この情報を軍の上層部にあげたが、陸軍省の副官あたりか?現地協定が出来たばかりとの理由からか?、その信憑性を疑われたのだろう、上に連絡されず握りつぶされてしまう。
結果は傍受の内容通り、その日、中国側の攻撃があり全面戦争に突入した訳である。戦後この証言は、戦争裁判の内容を揺るがす証拠として十分値打ちのあるものだったが、この証言も、裁判では特に取り上げることもなく無視される形で進み、今に至っているようである。
最近、航空自衛隊の田母神・元幕僚長が、APA主催の懸賞論文の内容で、職を解かれ、色々物議を醸していた。彼は、マスコミにインタビューされようが国会で証人喚問されようが、堂々と日本は侵略戦争に自ら突き進んだのでなく、巻き込まるようにしてああなったのだと言っていた。成る程と頷かされる内容であったが、何かこの一件も彼の論を支持するような気がする。
余談が長くなった。彼は拘留を解かれてから、戦争犠牲者並びにその家族の教化救済を目的とする白蓮社とうう宗教法人を作り活動、本部を日光輪王寺の三重の塔近くの庵に置き、また支部を東京文京区・護国寺の忠霊堂に構え、そこを拠点に硫黄島へ行き拾骨と慰霊活動を行うためGHQやアメリカ政府、日本政府などへ手紙などへ何度も申請し嘆願した。
硫黄島玉砕後2年ほどして、現地から生き残りが2人見つかると、現地の様子なども新たに分かった。彼はさらに活動に力を入れていく。現地の生き残りの一人は、日本帰還後数年にして再度硫黄島へ、そこで投身自殺している。彼が菊村到の小説『硫黄島』のモデルだそうだ(この小説を紹介した記事では内容は詳しく書かなかったが)。
和智は、1952年念願叶って最初の硫黄島慰霊を行う。最初の予定では10日ほどだったが、最終的には、約1ヶ月の滞在となり、帰還している。その間に、日本で白蓮社のK氏による詐欺事件などが発覚し、彼も疑惑の眼が向けられるが、K氏個人のことで彼とは関係ないことであった。
彼は、その後、参議院船出馬を理由に白蓮社を辞め、それに落選すると、今度は「硫黄島協会」という団体を設立し、そこを中心に硫黄島への慰霊及び拾骨活動を進めていくことになる。
もう一応上限の目安にしている文字数に達してしまった。筆を急ぐ。兎に角、執念を燃やして、彼は硫黄島で死んだ部下のために慰霊及び拾骨活動を行う。
この本でも何度も執念という言葉が出てくる。特に硫黄島で兵士たちの骨のうち、どうも頭蓋骨の一部が、誰かによって島外へ持ち出されているらしいと知ってからは、今度はその髑髏の返還に執念を燃やすといった有様。
彼の活動は家族との生活も省みず行った(ただし離婚はしていない)厳しいものだったが、晩年の1985年2月には、硫黄島の戦い40周年を記念して、日米のかつての兵士や家族・遺族らが一緒に慰霊祭を行うこともできたようだ。
ところで彼の家族は、妻・娘など全てカトリックに改宗していた。彼は亡くなる数ヶ月前に、「自分は、これまで日本の代表的宗教といえる仏教徒として慰霊にあたってきたが、もうこの役目は限界に来たようだ。役割が終わった以上、家族と同じ宗教に改宗したい」と言い、1989年12月14日イエズス会神父を呼んで洗礼し、ペトロという洗礼名を受けている。そして1990年2月2日亡くなっている。
人間の生き方には、色々な生き方もあるものだ。和智氏の半生も、必ずしも礼賛ばかりの内容でなく、その活動のやり方に執念深いとか色々批判も受けた人生だったようだ。が、硫黄島で死んだ自分の部下への慰霊に捧げたいという念願を前面に出し、その意志を貫き通しただけにやはり高く評価されるべきものがある。
戦後世代の我々は少しでも彼の考えや事蹟を理解して、彼の努力を無にすることなく21世紀の日本の将来に役立てていく必要があるのだろう。
多くの人に薦めたい一冊である。
(この記事は、七尾市立田鶴浜図書館から借りてきた本を参考に書いています)
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