ここでの私の紹介文で、最近葉室麟氏の作品が非常に多くなっているが、個人的にかなりハマってしまっているので仕方ない。ご容赦願いたい。
葉室氏の作品は、架空の九州の藩を舞台にした作品も多いが、これは実在の秋月藩の実在の人物をとりあげた小説だ。
帯紙の粗筋なども利用して、ちょっと前半部の詳しい粗筋を記しておく。
時は開国と攘夷に揺れる幕末。
筑前の秋月藩(福岡藩の支藩)の執政を務める臼井亘理(うすい・わたり)は、秋月藩の生き残りを図るため、西洋式兵術を導入した。
そして鳥羽伏見の戦いの後、大久保一蔵(後の利通)など新政府要人と面談し、秋月藩への信頼を取り付けた。
しかし国元では尊攘派らの者らが、西洋文物等に開明的で、時局の変化に機敏に対応する亘理に対して反発し、「変節漢」と罵ったり、「西洋亘理」などと渾名して侮蔑した。
遅れ馳せながらも彼は京畿で活躍し、秋月藩主と新政府要人の面会できるところまで至る、しかしその段階で、彼の活躍を妬む国家老から突然の帰国命令を言い渡される。
そして帰国して数日経ったある夜、臼井の屋敷は秋月藩の尊攘派で作る干城隊によって襲撃され、亘理は妻と共に凶刃に斃れた。
亘理の考えは、西洋式兵術の導入なくしては最早時勢に立ち遅れてしまい藩を滅ぼしかねないというもので、意見は終始一貫していたのだが、秋月の田舎にいて中央の時流など知らぬ田舎尊攘志士らは、開明的考えの持ち主=佐幕派となり、したがって、京畿に上って新政府に取り入ろうとする動きは、主流の薩長=尊攘派という固定観念があるので、変節漢ということになってしまうのだ。
今の目からすると、こんな志士らは、非常にワンパターン的思考、ステレオタイプの頭しか持たないでただ騒ぎ立てる馬鹿にしか見えないが、人間というものは、衝撃的事実を目の当たりにせねば目が覚めない。当時はどこの藩にしても多かれ少なかれこういう事があった。
高杉晋作も上海洋行後、旧式の武器のままの尊皇攘夷など愚かだと悟り、考えを変えるが、同様に変節漢として同藩の急進的尊攘派の志士から命を付け狙われた時期もあったのは有名な話。
事件後、遺族や親戚が藩庁に暗殺を行った者らに厳罰を求め願い出たが、藩の措置は、彼を妬む国家老などが関与したため、非業の死を遂げた亘理に対しても驕りなどの原因があった如く説明し、犯人に対してお咎めなしを言い渡される。
その後、暗殺犯人の名前<一瀬直久>を知人から教えられた亘理の息子の臼井六郎は、復讐を固く誓う。
しかし明治に入ると<仇討禁止令>の発布によって、江戸時代は武家の美風だった仇討ちが禁じられてしまう。
それでも復讐を誓う六郎は、数年経ってから、一瀬直久が東京へ出ていったと聞き、上京する。
六郎は山岡鉄舟の道場に入門し、剣の修行をすることになる。
そのうち彼の耳に、一瀬が名古屋裁判所の判事で、現在は甲府支所長をしているという情報がもたらされる。彼は仇討のために甲府に向かうが...
この臼井六郎が起こした事件は日本史上最後の仇討ち事件になるらしい。
ところでこの小説の中で、主人公・臼井六郎の父親代わりのような重要な役割を果たすのがあの有名な山岡鉄舟だが、臼井六郎に対して鉄舟は"仇討ちとは何ぞや"みたいな事を説いている。
鉄舟によれば、敵が憎いから討つ仇討ちは、邪念による仇討ちで真の仇討ちではないという。
勿論、大事な人の敵を討ち、無念を晴らしたいと思う気持ちは邪念ではないが、相手を憎む心はやはり邪念に過ぎぬとなる。
そして武士の仇討ちは私怨を晴らすにあらず、天に代わって邪を討ち、無念の最期を遂げた者を成仏いたさせることだと説く。
言葉では「私怨」と「討邪」の違いを述べられても、非道な仕打ちなど受けた被害者の家族など当事者には、それを混同するなという事は難しいだろう。
しかし主人公の臼井六郎は、仇討ちをする頃には、その境地に達しているのが分かる。
今の世なら、このような状況に自分もおかれれば、復讐が無理なだけに、尚更犯人に私怨を抱かずにはおれぬだろう。
法が邪をきちんと討たねば(罰せねば)、世の中が次第に狂ってしまう気がする。
現在の、被害者よりも犯罪者の人権を擁護するような風潮はそれだけにどうも首を傾げざるを得ない。
色々考えさせられた小説である。
お薦めの1冊です。