『資本論入門』(向坂逸郎著・岩波新書)を約30年ぶりに再読した。
1967年発刊(『資本論』発刊してから100周年目に発刊)という古い本だ。
ということは再来年が発刊150周年ということになる。
私が社会人になり立ての頃、買って読んだ本だ。
『資本論』とはは勿論、カール・マルクスの主著で、近代社会の経済的運動法則の認識方法について書かれた本である。
読もうと思った動機だが、最近、資本論の入門書など経済学関係の勉強をし直し(私は某私大の元経済学徒)、この混沌とした現代経済を自分なりに見つめ、考究してみたくなったからだ。
この本によると、早くから政治上の諸論評を書いていたマルクスも24歳頃、政治的諸問題を根本的に理解し論評するには、経済学が必要と感じ以後、猛勉強をはじめたとか。
私も経済学は、マルクスが生きた時代以上に、現代社会において将来を展望するには必須の学問と思う。それでこの頃、大学時代の本など経済学の本を再読しはじめている。
ある程度、学び直したら、私が学生の頃にはまだ有名で無かったポール・クルーグマンの著作や、最近大評判のトマス・ケティ『21世紀の資本』などを読んでみたい。
ところで皆さんは、何を今更マル経の本を読むのかと思うだろう。
大学時代、結構経済学を真面目に勉強したつもりのある私だが、実はマルクス経済学は殆ど勉強しなかった。経済思想史や経済学史も好きで独学で色々読んだが、実はマル経関係の箇所は端折ってじっくり読んでいない。
ただ最近、資本論などマル経は、経済という社会のダイナミクス構造を理解するにはかなり意義あることではないかと思えてきた。色々な思想家の社会の見方、彼らの方法論・分析ツールは、ある思想が衰えたからといって、それらまで排斥する必要はないと思うのだ。
しかし読んでみて思ったのは、やはりこの本の古さだ。また今なら、私のような者もマルクス思想や資本論の記述についておかしい箇所を幾らでも指摘できるように思われた。
例えば、マルクスの弁証法的史的唯物論も、自己撞着していると思う(歴史が弁証法的に進むなら「共産主義社会」に帰結する事なく、そこに至ったとしてもさらに先に進むはずだ)。
労働価値説や剰余価値をはじめとした彼が考え出した用語の概念にも疑問を感じる部分があるし、何よりも労働を重視している説なのに、労働に質的差異など無いとして、質的に等一とみなす、なんて考え方は非常に乱暴だと感じた。そんなもので価値をはかり計画経済ができると考えたこと自体、浅薄だったと思う。
マルクスは言う。「全ての生産量の一定量は、他の生産物の一定量に値する・・・」言い換えれば、生産物の一定量が、一定の交換比率を持てば、それらの生産物の含んでいる人間労働の量が等しい、という主張など、現代の格差社会などにおいてみた場合、特にアホらしさが際立っているように思えて仕方なかった。
私は資本主義が、未来永劫に続く素晴らしい経済原理だなどと言うつもりはない。資本主義も修正がまだまだ必要と思われるし、場合によってはもうそろそろ新しい経済思想に変わられるべきかとも思ってる。
とはいえ、マルクスを批判するなどまだまだ私には烏滸がましいことだろう。勉強不足だし誤解も多かろう。これでマル経を全く無視するような事は差し控え、世の中の問題を考える縁(よすが)として、時にまた読んでみたいと思う。
またまた駄文になってしまった。
スミマセン m(_”_)m
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