<百字紹介文>
仏教哲学者・評論家のひろさちや氏が、仏教本来の教えに基づいた「あきらめる」という考えのもと、問題の本質にある欲の正体に気づき、少欲知足でこの瞬間の幸せを感じながら生きる肩の力を抜いた生きたかを奨める。
<詳しい紹介文>
著者は東京大学・同大学院を卒業。宗教哲学を学び、大学で宗教哲学を教えたり、一般向けに特定の宗派にこだわらず仏教について紹介している人物だ。特に本来の仏教のあり方を分かり易く説こうとする姿は好評を得ているようだ。
私も著者の本は今までに何冊か読み、ここでも幾つか紹介している。
私は今年51歳でそれほど年寄りでもないが、仏教には深い関心がある。
ひろさちや氏の本は興味をもった仏教関係の事項のいいガイドブックとして活用している。
この本のタイトルは見たとおり「人生はあきらめるとうまくいく」という、ちょっと聞いただけでは普通の常識とは逆をいくことを言っている。
前に医者でエッセイストの鎌田實氏も『がんばらない』というちょっとよく似た、逆説的なタイトルの処世術的エッセイを書いているが、鎌田氏はその一方で『あきらめない』『なげださない』というこの本のタイトルとは真反対の本も出している。
著者は、お釈迦様の教えかもしれないが、かなり常識とは逆説的な生き方を説いているようだ。
本の中で、浪人中の息子に両親が頑張れと声をかけたため、既に頑張っている息子がこれ以上どう頑張ればいいのかと思い、自殺してまった話が紹介されている。両親は不注意な言葉を後悔したということだが、同様な事項に関して私も実は強烈な思い出がある。
昭和57年の2月某日、予備校生だった私は東京中野でM大学の試験を終えて帰寮中(西武線東伏見にあった予備校の寮へ)のことだ。
JR山手線から高田馬場で西武線に乗り換えるため、跨道橋を渡り、西武新宿線のプラットホームに階段から足を下ろした瞬間、ほんの1m先ほどの所、手を伸ばせば届きそうな距離で、受験生らしき青年が入って来た列車に飛び込んだのだ。
その日はM大の経営学部の試験もあったが、早稲田大学政経学部の試験の日でもあった。どうやら早稲田大学の試験が芳しくなかったのだろう。それで飛び込んだようだ。
私はその日以来、こんな受験の失敗ぐらいで人生を棒に振ることはしないぞ、と心に誓った。
能力相応の頑張りでいい、入れる大学でコツコツ頑張って努力したほうが、きっと自分には向いているはずだと思い、以来コツコツ前進主義が私の信条となっている。
いわばある意味で「あきらめである」。完全にその道の将来を諦めるのではなく、自分の能力が現状は○○程度だと認識し(明(あき)らめて)、それに見合った、その実力でハードルを超えられる負荷で努力を積み上げていくのだ。
「あきらめる」という言葉には、「明らめる」という意味があることを著者も言っている。
仏教的な教えでもあるが、「明」の旧字の「朙」自体、その字の左側の扁には「窓」の意味があり、窓から月を覗いている姿を字にしたものだという。月明かりのもと、物を確かめるということらしい。では日ではなく月なのか?
著者の説明だと、日の明かりだと、明る過ぎてかえって細部まで見えてしまい、全体像を見失い歪んで(要らぬ事まで想像したりして)見てしまうから、月明かりぐらいがちょうどいいのだという。
かなり脇道にそれてしまった。
とにかく著者は、「がんばれ」に潜む「もっと」の危険。頑張っているに行き詰っているような人を更に追い込むような言葉の危険を指摘。第1章ではタイトルも「「がんばる」生き方は不幸をまねく」として頑張らない生き方を説く。
また第2章「仏教的問題解決のすすめ」等では、あきらめを行い少欲知足で、手段(例えば何かの欲望を満たす手段)を目的化せず(現状でも得られている)「幸福」だけを見つめて生きる事を勧める。
人間の欲望には限りが無く、ある欲望を満たすとさらにそれを上回る程度の欲望を求めるだけで、いつまでも満足せず、あくせくして精神的に不幸な生活を送るという。
人生とは仏教で説くように四苦八苦(「生・老・病・死」の四苦+「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」の八苦)の世界であり、もともと人生とは苦に満ちたものだと「あきらめ」、そう納得して、苦しみを減らそうとせず「しっかり苦しんで」、それでいてそのままの状況の中で「のんびり、ゆったり、楽しんで」生きていく。
まだ色々述べているが、この辺でやめておこう。
かなり過激な例による「あきらめなさい」という言葉も出てくるが、読者に精神的に割り切らせようという考えもあるのだろう。
著者のいう事を聞き、ちょっと今までのやり方を「あきらめる」という観点で見直すだけで、大分楽になるかもしれない。
お薦めの一冊である。
←ランキングに参加しています。