<百字紹介文>
戦後托鉢のみで収入を得て暮らし人々から「宿なし興道」と称号を奉られた曹洞宗の禅僧・沢木興道の法句を、その愛弟子の内山興正氏がノートしその中から選りすぐりの言葉に「参」(解説)を加えまとめたのが本書だ。
<詳しい紹介文>
この本は昭和51年発行の非常に古い本である。
著者の内山興正氏(1912-1998)は、早稲田大学で西洋哲学を学び、キリスト教にも影響を受け、宮崎公教神学校の教師などもしていた人物である。
その後昭和16年、曹洞宗の沢木興道老師について出家得度し、昭和40年、同老師遷化の後は、鋭意、後進の育成と坐禅の普及に努めた。当時内山氏の門下には外人も多くいたそうで、その著作は英米仏など数カ国後に訳されたという。
「宿無し興道」と称号を奉られた内山氏の師匠・沢木興道氏が語った言葉のうち、内山氏がノートし、寸鉄のごとく鋭く、しかも底知れず深い含蓄をたたえた言葉を「法句」として拾い出し、この「法句」に内山氏が「参する」という形で「宿なし法句参」と銘打って書き出したのがこの本の契機のようだ。
内山氏がこの「法句参」を書き始めた頃は、沢木氏も生きていたが、まもなく遷化した。内山氏はその後も「参」の執筆を続け、それを大阪毎日新聞に連載することになり、1年2ヶ月56回に亘って書かれて纏められたのが本書である。
沢木興正氏は「色気と食気の他に何ぞ考えたことがあるか!」などといった豪放磊落な語り口で、最後の雲水と言われた人物だそうだ。沢木氏の寸鉄、人の心をつく片言隻句を、愛弟子の内山氏が温め、噛み締め、味わい尽くしたのがこの解説書ともいうべき本書である。
沢木氏は、古臭い仏教の用語や禅語持ち出したり、仏典の引用したりなどしていれば、とたんに人々からそっぽを向かれると考え、平明な言葉で滋味深く語った禅僧だったそうだ。
沢木氏の法句だけ幾つか挙げてみよう。
「屁ひとつだって、ひとと貸し借りでけんやないか。人々は皆『自己』を生きねばならない。お前とわしと、どちらが器量がいいかわるいか、頭がいいか悪いか・・・・比べてみんかてええ」
「群衆心理とはおかしなもので、何にもわからぬなら黙っておりゃいいのに、何にもわからぬところにブラ下がってやりおる。自己のないことおびただしい。これを浮き世という。」
「今時分のやつのやることは、みな集団をつくってアタマ数でゆこうとする。ところがどこの集団でもグループぼけばかり。いわんや党派をつくるなど、グループぼけの代表である。そんなグループぼけをやめて、自分ぎりに自分になることが坐禅である。」
「人間というものは、みな一緒じゃない。これメイメイのもちもんなんじゃ。」
「だれでもみんな、メイメイもちの穴から覗いた世界だけをみておるもんな。そしてこのメイメイもちの見方、考え方を、みんながもちよるんじゃから、世の中にはモメが起こる。」
「宗教とは、外の世界をつくりかえるのではない。こちらの目、耳、みかた、アタマをつくりかえるのである。」
「われわれはサトリをひらくために修行するのではない。サトリに引きずりまわされて修業するのである。」
「坐禅して何になるか?-ナンニモナラヌ。-このナンニモナラヌことが耳にタコが出来て、本当にナンニモナラヌことをタダするようにならねば、本当にナンニモナラヌ。」
「仏道とはよそみせんこと。そのものにナリキルことである。これを三昧というう祇管(しかん)という。」
「『唯識論』という書物に、『内識転じて二分に似る』とあるが、たった1つの意識が動いて、主観と客観とがあるに似ており、その中でこれを追ったり逃げたりして大騒ぎがはじまるのである。-煩悩とはオカシナもんじゃね。」
「自分というものは、自分をもちこたえてゆくことはできない。自分が自分を断念したとき、かえって宇宙とつづきの自分のみとなる。」
難しい言葉もあったかと思うが、内山氏の「参」というか、わかりやすい解説がついて、読むとナルホドと思う。
私は真宗門徒であるが、曹洞宗や禅(宗)にも強く惹かれ、以前鎌倉のさる有名禅寺で坐禅を数日数回したこともある。
今後も折々、禅関係の本を読んでみようと思う。
できればここにも紹介したい。
現在なかなか入手は難しいかと思うが、お薦めの一冊である。
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